後世へ受け継がれるねぶた

8月2日から7日、青森が賑わう。
これは青森ねぶた祭りが毎年開催される期間だ。

青森ねぶた祭りの始まりは、七夕様の灯篭流しの形が変わったものと言われている。
七夕祭りでは穢れなどを水に流す習わしがあるが、ねぶた祭りでも7日目の夜に同じようにねぶた人形を川や海に流す習わしがあるからだ。

現在の青森ねぶた祭りでは、装飾付きの2メートルの車つきの台の上にねぶたを飾り、全長5メートル程にもなるという。
総重量は4トン程。
このねぶたが祭りの日、運行コース全体に待機し、一斉に全てのねぶたが動き出す。

そのため、観光客は待ち時間もなくねぶたを見ることができる。
祭りは、時代とともにねぶたが巨大化をしたり、本来の意味から観光客が主役へと変わっていった。

伝統的な祭りであればあるほど、観光化して趣旨とずれ、本性を問われることがある。
しかしどちらが正しいと言えるだろうか。
観光化したから祭りが活気づき、後世へと続いている。

そのことを考えると、伝統が現代に合わせて変化していることも悪いことではないと言えるのではないだろうか。
祭りは大切な観光資源であり、観光客を迎えることで地域市場が活性化する。
しかし、これに安住し過ぎるとマンネリを敬遠してくる人が出てくるので、気を抜いてはいけない。

伝統に固執し過ぎて失敗するケースもあるように、時代にあったものを提供することが大切。

夏祭りのころ

7月になると、日本各地で夏祭りの気配がしてくる。
色んなところに、ポスターが貼られる。
何とか神社の夏祭りとか、花火大会なんかのポスター。

そんなようなものは、いくつになってもわくわくさせる。
夏の一大イベントである。

別に浴衣を着て出かけたいなんていう青春の年齢はとっくに過ぎ去ってしまったけれど。
それでも小学生や中高生なんかの男女のグループでたむろして、おそらく彼らの間で流行っているであろう、丈を短くした甚平風のや、半襟にレース素材を用いた浴衣を着てじゃれているところを見ると、ああ彼らは今ちょうどその青春を過ごしているのだ、と感慨深い。
それにしても、あれはもはや浴衣ではないな、なんて思いながらそんな初々しいカップルたちを眺めている。

そして私はビールを飲みながらきゅうりの一本漬けを食べるのだ。
すっかりもうみずみずしさがなくなったような気がするが、まあそれも人生である。

そう言えば最近、近所の神社の脇を夕方通ると、お囃子の音が聞こえてくる。
神社の社務所で、笛や鼓のお稽古を夜な夜なやっているのだ。

日が落ちて、少しだけ涼しくなった時に、ふとそのお囃子を耳にすると、なんだかわくわくするような、それでいて、夕方もう宴もたけなわでお開きになる寸前、といったような切ない気持ちも同時に味わう。
夕方というシチュエーションもある。

一生懸命に練習しているその笛や鼓は、祭り本番の日はもう最後の日なのだ。
晴れの日には、ちょうど文化祭が終わるような、そんな一幕の終わりという感じがする。
私だけかもしれないが。
今年はいくつ夏祭りにいくだろうか。

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